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本気のしるし 劇場版(2020)

(C)星里もちる・小学館/メ~テレ 写真出典:『本気のしるし 劇場版』公式サイト


作品データ
監督:深田晃司
原作:星里もちる(『本気のしるし』小学館・ビッグコミックス)
脚本:三谷伸太朗、深田晃司
スタイリスト:キクチハナカ
出演:森崎ウィン、土村芳、宇野祥平、石橋けい ほか
受賞歴:第73回カンヌ国際映画祭オフィシャルレーベル「カンヌセレクション」選出
2020年製作/232分/日本
配給:ラビットハウス
公式サイト





「わかりやすさ」へのアンチテーゼ


なんの予備知識もなく出かけてしまったので、窓口で初めてチケット代と上映時間を知った。

232分。

直近では『アイリッシュマン』より長い。でも、デ・ニーロもパチーノも出ていない。大丈夫だろうか。前の日、仕事が忙しくて4時間しか寝ていない。上映時間とほぼ同じだ。途中で睡魔に襲われないか、急に心配になった。


結論から言うと、それどころではなかった。「なにそれ、どういうこと?」と考えているうちに次のシーンに引っ張って行かれ、眠気など感じないうちに、気がつくとエンドクレジットが流れていた。


おもしろい映画の条件

おもしろい映画には3つの条件があると思っている。

ひとつは、映画館で観たくなること。
ふたつめは、観た後でその映画について誰かと話したくなること。
みっつめは、もう一度、観たくなることだ。

『本気のしるし』は、ふたつめは間違いなくクリアしている。気になって誰かと話さずにはいられないことがたくさんあるからだ。たとえば…


浮世は、辻くんは、なぜあんな行動をとったのか。
謎の男が浮世に執着するのはなぜか。
脇田はその後どうなったのか。
浮世と別れてから、辻くんはどうしていたのか。
そしてなにより、この後、ふたりはどうなるのか。


ハッピーエンドのようでいて、鳴り響く警笛が不安をかきたてる。深田晃司監督作品には、ほとんど音楽がない。そのかわり、映像の「背景音」に感情を揺さぶられる。


ラストシーンは結局、最初のシーンに戻ってしまった。違うのは辻くんと浮世の立場が逆転していることだ。

またおなじことを繰り返さないと言い切れるだろうか。辻くんからは覇気が感じられないし、浮世も弱い人を放っておけない性分がまた顔を出しただけかもしれない。その不安を踏切の警笛が増幅する。

もう一度観れば、疑問のいくつかは解消するかもしれない。そういう意味ではみっつめの条件もクリアできそうだ(しかしまた4時間かけて見直すには、ちょっとした決意が必要だ)。


なぜ、ありきたりではない恋愛ドラマになったのか

とにかく冒頭からイライラさせられる。展開が読めないというより、わけがわからないからだ。

設定は読める。辻くんが二股かけていることも、浮世が人妻であることも、自動車のセールスマンが夫だということも、心中の相手が峰内だということも、すぐに察しがつく。わからないのは、そういう状況のなかで彼らが読めない反応や行動をすることだ。

踏切で助けられたのにウソをつき、奢ってもらっているのにビールを注文して酔っぱらう浮世。迷惑ばかりかけられ、頼まれてもいないのに借金を肩代わりする辻くん。

どうしてそうなるのか。途中、辻くんが細川先輩に求婚する2時間半あたりで休憩が入るが、この時点でも映画がどこに流れ着こうとしているのか、わからない。

ジャンルもわからない。コメディなのか。ミステリーなのか。ホラーなのか。

最後まで観れば、シンプルな恋愛劇でメロドラマだとわかる。辻くんが飼っているザリガニの名前が“マーロウ”のせいもあって、サスペンス風味もある。


辻くんと浮世のキャラクターもわかりにくい。
ふたりとも、いわゆる恋愛映画向きではない。そういう作品にありがちな熱いエネルギーが感じられないのだ。

とくに浮世のような男を翻弄する女は、いくらでも“ファム・ファタル”として描けるのに、深田監督はステレオタイプな描写を避けている。

たとえば自動車教習所で浮世と親しかった女性が言う。「相手の望む態度を取り続けてしまう自分も、いまのパートナーに出会わなかったら、浮世さんのようになっていたかもしれない」と。

つまり浮世が置かれている境遇は、性格だけでなく、そういう態度を取らなければ生きづらい環境にも一因があると言っているようにも聞こえる。

確固とした「自分」を持たない人が、社会からはみ出さずに生きていくには、周囲から求められる「型」に自分を当てはめることだ。たとえば「平均的サラリーマン」、「いいお母さん」など。だから辻くんは会社という接点をなくした途端、自分を保っていられなくなる。

そんなふたりだから過去にまともな恋愛をしたことがなく、自分の気持ちに気づかない。人間関係も希薄だから「それは恋だよ」と教えてくれる親しい友人や家族もいない。

エネルギーの低い人たちが「型」にはまらなくても、自分を保っていられる方法が「本気になる」ことだ。なにかに本気になれば、物語がうまれる。途中までイライラするのは、ふたりから「本気のしるし」が見えないからだ。

(C)星里もちる・小学館/メ~テレ  写真出典:『本気のしるし 劇場版』公式サイト

「本気のしるし」とはなにか

いわゆる恋愛映画、メロドラマでは「運命の人」「愛してる」という言葉が、イヤというほど繰り返される。愛の重さや深さを測ることはできないが、少なくともエンタメの世界では安易に使われすぎて、陳腐化している。

『本気のしるし』に出てくるのは、最後の数分に1回ずつ。追いかけてきた理由を尋ねる辻くんに「あなたが運命の人だから」と浮世が答え、「愛してる」と言った次の瞬間にスクリーンは暗転する。

ああ、このひとことに「本気」の重みを与えるための4時間だったのか。


読書家で知られるクリストファー・ノーラン監督は、本を後ろから読むそうだ。後ろからだと、「どうしてこうなったのか」考えながら読むので、どんな作品もサスペンス&ミステリーになるかららしい。

『本気のしるし』は、ある意味で逆から書かれたメロドラマだ。とても恋愛ドラマの主人公にはなりそうにない、生きる熱量の低いふたりが結ばれるには、どういう経路をたどるのか。ていねいに遡っていくには4時間が必要と深田監督は判断したのかもしれない。

ありがちな「型」を壊してみせる、深田作品

ふだんは洋画が多いので、失礼ながら深田晃司監督作品は、これまで観たことがなかった。ただ、この機会に『海を駆ける』『淵に立つ』などを観た。

深田作品には、いくつかの共通点がある。音楽を使わないとか、長回しが多いとか、大事なセリフのときに役者の顔を見せないとか、手法としての特徴がいくつもあるけれど、もっとも強く感じるのは作品全体を覆う「不穏感」だ。

浮世がわかりやすいファム・ファタルとして描かれていないように、深田監督は意図的にありがちな「型」を壊しているように見える。キャラクター設定だけではない。突然の訪問者や唐突な場面転換など「いまのはなに?」と首をひねる。

いまの世の中、わかりやすさが求められている。わかりやすさそのものは悪ではないが、すぐにわかることはすぐに忘れてしまう。安直に答えが得られるために、深く掘り下げて自分で考える機会を失いやすい。

あえてわかりやすい型を崩して予測を裏切られると、人は不安になり、不穏な空気に包まれる。

深田作品は、わかりやすさに対するアンチテーゼだ。「ほんとうにそれでいい?」「もうちょっと踏み込んでみたら?」とスクリーンを通して問いかけてくる。それらはこんな時代だからこそ大切な質問だと思う。

ドラマと映画に求められるものの違い

さて、おもしろい映画3条件のうち、最初のひとつは「この映画を観に行こう」と決めた時点でクリアできる。

ただ、『本気のしるし』は映画レビュー講座の課題として観た。課題でなかったら観ただろうか。

今回は事前情報を仕込まずに出かけてしまったので、原作が星里もちるの連載マンガだったことも、名古屋地区でオンエアされたテレビドラマの劇場版だということも知らなかった。映画が始まって1時間を過ぎた頃、ふと気づいた。これは一般的な映画の尺である2時間程度に収める前提でつくられていない。「連続ドラマの再編集だ」と。

ドラマと映画の違いはなにか。
技術的なことを除いて、あくまでも観る側の立場で考えると「期待するものの質の違い」ではないかと思う。

無料で片手間でも観られるドラマと違って、料金を払って劇場で一定時間、拘束される映画は、劇場に足を運ぶ前に「ハズレだったらイヤだな」とつい考えてしまう。

『本気のしるし』はハズレではなかった。深田晃司というユニークな視点をもつ映画作家と出会うきっかけにもなった。それでも、この作品は映画よりドラマで観たかったと感じるのはなぜだろう。

せっかく4時間もあるのなら、辻くんと浮世の恋愛以上のものを感じさせてほしかった。青年マンガにありがちな、男性側に都合のいいヒロインの歪さやジェンダーギャップをうみだしてしまう社会構造上の問題にもっと触れてもよかったのではないか。

劇場版のキャッチフレーズは「ふたりなら堕ちても」だけれど、それでは浮世や辻くんがダメ人間だったから成立する、個人的な物語に矮小化して見えたのも残念だ。

最初から4時間と知っていて、いつものようにある程度、下調べをして、キャッチフレーズが「ふたりなら堕ちても」なら、劇場には行っていない。

ただ、深田監督の次回作は、ぜひ劇場で観てみたい。次の作品は「おもしろい映画」の最初のひとつをもうクリアしている。


『本気のしるし』の衣装、パンフレット、その他

『本気のしるし』の衣装について

ヒロインの心と暮らしの変化を表現
服装には無意識のうちに着る人の心が表れるものだが、浮世はとてもわかりやすい。彼女が着ている服のほとんどは、1枚で装いが完成する、ややルーズなシルエットのロングワンピースだ。体型をすっぽり隠し、着ていてラク。コーディネートを工夫する必要もない。ランニングやTシャツをそのままズルッと長く伸ばした飾り気のないデザインが多く、重ね着をして肩や胸もとからチラッとのぞくレースの淡い女らしさとは対極的に、二の腕がなまめかしい。

ただ、浮世はそういう計算をいっさいしていない。衿のあるきちんとした服や体にフィットした服を着るのは、思っている以上に緊張感が必要なもの。すべてがめんどうで煩わしいとき、体のどこか1ヶ所でも密着する部分がある服を着る気になれるだろうか。ルーズな服はルーズな心の表れなのだ。

ところが服のなかで泳いでいる胸やお尻のラインを布が拾ってしまい、「隙が多い」「男を誘っている」と都合よく解釈されてしまう。社会的に無防備で経済的にも精神的にも余裕がなく、気がまわらないだけなのに…。そういう浮世の危うさを的確に表現したスタイリングだった。

一方で、セールスの職に就いてからは、ブラウスとベストとセミタイトのスカートに変わる。会社の制服かもしれない。おしゃれではないが、社会と接点を持ち、堅実な生活が軌道に乗っていることを感じさせた。

これを逆手に取れば、生活を立て直したい人は、まず服装から整えるといい。パーソナルスタイリングのコンサルがやっているのは、そういうことだ。


『本気のしるし』のパンフレット

原作マンガと映画のコラボではあるけれど…
パンフレットの表紙は原作者・星里もちるによる描き下ろし。ドラマ版を観た後に描いたものを提供したらしい。原作を読んでいないので比較はできないが、連載の完結が20年近く前だから、絵のタッチはかなり変わっているのではないか。

判型はA4、32ページ、マットコート系のしっとりした紙質の一般的な映画パンフレットの仕様。
せっかく原作者からイラストの提供があったのだから、四六判で平綴じにするなど、青年コミックスの判型や仕様に合わせたデザインにすると、もっと気分が出たのではないか。原作ファンなら、書棚でコミックスの隣に並べたくなるように。
(この項つづく)


参考:公開記念Zoomトーク vol.2 田中貴子教授(『<悪女>論』著者)×深田晃司監督

『本気のしるし 劇場版』が公開されたのはコロナ禍だったこともあり、プロモーションイベントの多くがオンラインで開催されました。レビューでもヒロインの浮世が典型的なファム・ファタルとして描かれなかったことは指摘しましたが、深田監督もその点は強く意識しておられ、とくに田中貴子教授の『<悪女>論』に影響を受けたとのこと。田中教授との対談動画がありましたので、ぜひご覧ください。


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