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バッファロー’66(1998)

(C)LIONSGATE FILMS 1998  写真出典:『バッファロー66』公式サイト

作品データ
原題:BUFFALO’66
製作総指揮:マイケル・パセオネック、ジェフ・サックマン
製作:クリス・ハンレー
監督・脚本・音楽:ヴィンセント・ギャロ
脚本:アリソン・バグナル
撮影:ランス・アコード
美術:キディオン・ボンド
出演:ヴィンセント・ギャロ、クリスティーナ・リッチ、アンジェリカ・ヒューストン、ベン・ギャザラ ほか
1998年製作/111分/アメリカ
配給:コピアボアフィルム
公式サイト

優雅な生活が最高の復讐

『バッファロー‘66』は、19997月、日本初公開。
俳優というよりマルチ・アーティストとしてサブカル界隈ではすでに知られていたヴィンセント・ギャロの映画監督デビュー作だ。

東京に住んでいた頃、よく出かけたパルコPart3シネクイントのオープニング作品だった。ファッション雑誌にもたくさん紹介され、おしゃれな女の子たちがこぞって観に行っていたことを覚えている。

ただ、映画を観た彼女たちの感想は必ずしも芳しくなかった。一方で男の子たちは、愛すべき傑作と褒めそやした。その落差がおもしろかった。

映画は、ビリー・ブラウンが5年の刑期を終え、出所するところから始まる。ビリーは家族に服役を隠しているうえ、結婚していると嘘を重ねている。実家に行くと言ったビリーは通りすがりのレイラを誘拐し、妻になりすますよう強要する。ビリーの両親は息子に関心がなく、彼がネグレクトを受けてきたことがわかる。癇癪持ちの父とアメフトにしか興味のない母を前に、レイラは恋女房を演じて場をとりもつ。
実家を出てからも行動をともにするなかで、ビリーに惹かれていくレイラ。ふたりはモーテルに泊まるが、ビリーは刑務所に入るきっかけになった(と一方的に思い込んでいる)元アメフト選手のスコット・ウッズに復讐するため、「5分で戻る」と言って部屋を出る…。

ヴィンセント・ギャロ監督作、3つのキーワード

ヴィンセント・ギャロの監督作で、日本公開されたのは、これと『ブラウン・バニー』の2本だけだが、まったく対照的といっていいだろう。

しかし、大きな共通点が3つある。
ひとつはギャロが監督・主演・脚本など製作の主要部分に大きく関わり、「ほぼ一人でコントロールしている」こと。
もうひとつは主人公の「トラウマ」がテーマになっていること。
そして、「妄想」によってそのトラウマから身を守っていることだ。 

ということは、この3点を解き明かすことが、作品を理解する鍵になると思う。

なんでもできすぎると、誰も止められない

いろいろな手法が盛り込まれた映像は、センスのいいプログレッシブロックの選曲にフィットして、全編が長尺のミュージックビデオのようだ。

ラストの妄想シーンでは、画面がワイプしていってビリーの頭におさまる。残酷なのに、どこかコミカルなのは、ストップモーションが使われているからだろう。

冒頭では、刑務所で過ごした日々がモンタージュで描かれる。

実家のシーンでは、別々の方向に固定したカメラで撮った映像をカットバックさせながら見せている。小津安二郎ファンを公言しているだけあって、同様のシーンは『ブラウン・バニー』でも見られる。これを入れずにはいられないのだろう。
そういえばレイラのクルマのバックナンバーは“OZU”だった。


「実験的」を狙っているのかもしれないが、盛り込みすぎで流れを分断しているようにも感じられた。リバーサルフィルム独特のざらついた質感やグレイッシュなトーンに赤を効果的に配した構図だけでも充分凝った映像だったのだが。

なんでも自分でできてしまう多才な人なので、やりすぎても誰にも止められない。良くも悪くも「俺さま流」で、好き嫌いはわかれそうだ。


(C)LIONSGATE FILMS 1998  写真出典:『バッファロー66』公式サイト

ビリーがほんとうに復讐したかったのは…

ビリーの出身地や生い立ちなどに共通点が多いことから、自伝的作品といわれるが、本人はインタビューで否定している。しかし、両親のモデルはギャロの両親だという。

ビリーはダメ男だが、両親はもっとダメダメだ。
父親は息子の愛犬を勝手に捨ててしまうし、母親は贔屓のチーム、バッファロー・ビルズの優勝を出産のために見逃したと、30数年たったいまでも根に持っている。お前など生まれてこなければよかった、と言わんばかりに。

そりゃあ、トイレで「生きられない」と泣き崩れるほど人生に絶望したくなるだろう。


こんな毒親にもかかわらず、ビリーは服役中も友人のグーンに頼んで手紙やクリスマスカードを送り続ける。妻を連れて帰るとか、スコット・ウッズを殺して自分も死のうとするのも、ひとえに両親を振り向かせたい一心からだ。


さいわいスコットへの復讐計画は実行されない。もし自分が死んでも、両親は悲しまないと気づくからだ。

そしてビリーはもっと大事なことに気づいたのではないか。彼がほんとうに復讐したかったのはスコットではなく、両親だったことに。


わたしは、スコットの復讐をやめたことで、結果的に両親に復讐したと思っている。「両親に復讐」が人聞き悪いなら、トラウマを乗り越えたと言い換えようか。

今後、自分の人生から彼は両親を締め出すだろう。もう電話もかけないし、手紙も出さない。会いに行くこともないだろう。自分を愛してくれる人を見つけたのだから。

男の浪漫は、女の不満

じつは初めて観たときは、途中で寝落ちしてしまった。

ビリーは拉致したレイラを残して一瞬、クルマから離れるが、もし自分ならその隙に1200%確実に逃げている。でも、レイラは逃げない。

それはないだろう、と思ったら急にバカバカしくなって、ところどころでウトウトした。ビリーとレイラは恋に落ちるかもしれないが、わたしなら始まって15分で上映終了だ。

あまりにもビリーにだけ都合がよすぎる。どんなに暴言を吐かれようと、見守るように微笑むレイラ。女性経験がないせいか不器用で、いっこうに手を出してこないビリーに自分から「抱きしめて」と体を寄せる。しかもベビーフェイスでおっぱいが大きいなんて、まるで少年マンガのキャラクターだ。

出版社に勤めていた友だちにその話をすると、彼は笑いながら言った。

「少女マンガだってそうじゃないか。昔、妹のを借りて読んだことがあるけど、そんな女の子に都合のいい男はいない。お互いさまだよ」

なるほど。

男子は少女マンガを、女子は少年マンガを「ありえない」と思っている。天使・レイラは白馬の王子さまの反転だったわけだ。

男子だって「あなたは世界で一番優しい人よ、ハンサムだわ、愛している」と、かわいい女の子に言われたい。それで救われるのだ。


数年前からネットで拡散しているスラングに「男の浪漫は、女の不満」がある。
究極は性差より個人差だと思うが、そう考えればこの映画に対する反応の違いにも合点がいく。

レイラは何者なのか

そこでふと考える。
レイラも、母性的な愛情を求めるビリーの妄想の産物ではないのかと。

彼女は名まえ以外、自分について語らない。ビリーの実家で話すCIAの話は、もちろんでっちあげだ。彼女は実在するのだろうか。

流行語にもなった倉田真由美の漫画『だめんず・うぉ〜か〜』の連載が始まったのは、『バッファロー’66』が日本公開された翌年の2000年。その後、テレビドラマ、アニメ、舞台化される大ヒット作品になった。
世の中にはビリーのようなダメ男もいるが、そういう男にばかり惹きつけられてしまう女性もまた存在する。たとえば、『本気のしるし』の浮世のようなタイプだ。

…それはそれで理解できる。でも、レイラはそうではない気がする。
ヒントがふたつある。

レイラがボウリング場でKing Crimsonの“Moonchild(ムーンチャイルド)”にあわせて、タップを踊るシーンは、この映画の白眉だ。この世界ではない、月に住むひとりぼっちの女の子についての歌は、彼女がいないことを示している気がする。

(C)LIONSGATE FILMS 1998  写真出典:『バッファロー66』公式サイト


さらに、監督2作目の『ブラウン・バニー』では、ラストである人物がすでに死んでいたことがわかる。この作品は2003年公開だが、インタビューで構想20年と答えている(※1)。
つまり以前から、妄想の人物が登場する作品を考えていたわけだから、『バッファロー‘66』に登場させても不思議はない。


『ブラウン・バニー』は、ベッドの左端に胎児のようにうずくまっていたギャロ扮するバドが起き上がって、また旅に出て終わる。

ビリーもモーテルで目覚めたら、もしかしたら一人かもしれない。


愛してくれる女性が幻だったとしたら、それは寂しい人生だろうか。

ほんとうにトラウマを乗り越えるためには、実際に誰かに愛されることが必須なのか。ほんとうにトラウマを乗り越えるとは、愛されても愛されなくても、自分から愛を与えられる人になることではないか。

そう考えると、カフェの見知らぬ男にハート型のクッキーを奢るビリーは、すでに後者になっている。

トラウマを超えて生きる

ところで22年ぶりの公開にあたり、新たに気になったことがある。初見では気づかなかったことだ。

「あんな親だから、ビリーはダメ人間になった」と言うのは簡単だが、それならなぜ、彼らはあんな毒親になったのだろう。

虐待は連鎖するという。彼らも親から虐待を受けていたのではないか。

亡くなったわたしの父は広島県出身なので、広島カープの熱狂的なファンだった。わたしはずっと父と折り合いが悪かったが、それでも同じように広島カープのファンになった。カープが勝つと、父の機嫌がいいからだ。父の機嫌がいい日は家の中が穏やかだった。

ビリーも母と同じバッファロー・ビルズのファンだ。そのため賭けに負けて大損し、刑務所に入ることになる。

あんな親でも、贔屓チームが勝てば機嫌がいい。だから応援していたのだろう。
ジャンの親もまたビルズのファンだったのではないか。贔屓チームが勝てば、一緒に喜べる。家の中も穏やかだ。

最初に観たときは、クリスティーナ・リッチとアンジェリカ・ヒューストンが食卓を囲むシーンについて『アダムス・ファミリー』みたいだな、くらいにしか感じなかった。あれから20年以上たって、自分も出演者ではベン・ギャザラの年齢にいちばん近くなり、視点が変わったことに気づいた。


「トラウマ」という言葉は好きになれない。

流行語になって以来、簡単に使われすぎている気がする。「トラウマ」がいやなのではなく、「トラウマ」が言い訳として利用されるのがいやなのだ。ほんとうにトラウマを抱えて悩んでいる人は、トラウマの存在に気づいてもいないだろう。


レイラがほんとうにいるのか、いないのかはわからない。でも、前に進むことを選んだビリーには、カルヴィン・トムキンズが著書にも使った、スペインの諺を贈って祝福したい。

「優雅な生活が最高の復讐である」と。

 

※1 出典:Vincent Garo × “the Brown Bunny (UNZIP)


『バッファロー’66』の衣装とパンフレット、その他

『バッファロー’66』の衣装について

ビリーの革ジャケとレイラのベビードール

サンローランのイメージモデルに起用されたこともある、ヴィンセント・ギャロは、ファッションアイコンとしても定評がある。本作でもベルトレスのスリムフィットパンツから覗くグンゼのブリーフから赤いジップブーツまで、すべて自前という。

70年代ヴィンテージ・クラフトレザーの伝説的ブランド、EAST WESTのコレクターとしても有名なせいか、『バッファロー’66』のギャロといえば、ボウリング場のシーン以降で着ているレザージャケットの印象が強い。身頃のダーツでタイトにフィットするだけでなく、デザインのアクセントになっている。素材はカーフだろうか。
このレプリカが、日本のセレクトショップでもいまだに“ギャロジャケ”として売れている。

レプリカは黒をよく見かけるが、本家はチャコールに近いダークグリーンではないかと思う。下の写真は比較的、その色がわかりやすい。
「なに色」と具体的に表現しにくく、ライティングによって見え方が変わる複雑な色に、ビリーのわかりにくさ、屈折したキャラクターを感じる。それもヴィンセント・ギャロの人となりかもしれない。


(C)LIONSGATE FILMS 1998  写真出典:『バッファロー66』公式サイト


一方、クリスティーナ・リッチは淡い水色のベビードールを着用。タップダンスのレッスンウェアとして着用しているようだが、レオタードと網タイツを合わせるのはわかるとして、レッスン着としても普段着としても変わったセンスだ。ベビードールは、本来、ランジェリーだから。

そういう「不思議ちゃん」ぶりから、レイラもまた普通の女の子ではないことがわかる。

ベビードールの素材は、よくわからない。薄くて落ち感があるので、ポリエステルサテンあたりか。薄手だが二枚重ねになっていて透け感はない。

ビリーのジャケットはレザーなので厚くて、しっかりしているが、皮革類は着るほどにやわらかく肌になじむ。
硬くて扱いが難しく、しくじればカビも生えるが、うまくつきあえば一生もののレザーと、薄くて柔らかいのに、中まで透けないポリエステルは、ビリーとレイラのキャラクターのようだ。


薄着だったレイラは、いつのまにかビリーのスエードのスリー・ポケット・ジャケットを着ている。ビリーが着せてやったのか、レイラが脱がせたのか、どちらかによって二人の関係性が変わるが、本編には出てこない。

…そのやりとりを想像すると味わい深かったりする。


(C)LIONSGATE FILMS 1998  写真出典:『バッファロー66』公式サイト

それにしても、娯楽といえばボウリング、レストランといえばデニースくらいしかない低所得者層が暮らす郊外の住宅地で、ヴィンセント・ギャロの着こなしは都会的すぎる。実家のシーンは実際に住んでいた家で撮影したらしいが、16歳で地元を出たのもわかる気がする…。


『バッファロー'66』のパンフレット

保存に困る(笑)大判サイズ

(coming soon)


参考:『バッファロー’66』予告編:ディレクターズカット版(1998)


通常、予告編を制作するのは配給元で、おいしいところをチラ見せしつつ、続きが見たくなるように劇場に誘導する。そんな“お作法”は無視して、ギャロが自腹で作ったオリジナル予告編がリバイバルに合わせて久しぶりに公開された。予告編というより、YESの“Heart of the Sunrise”のミュージックビデオかと思うほどにクールで、本編より好きなくらい。すでに観た人ほど良さがわかるという意味では、映像作品としてすぐれていても、予告編としての商品価値を考えると微妙…。そのあたりにも映像作家としてのヴィンセント・ギャロの立ち位置がわかる。

出典:当時は理解不能とされたギャロ制作の本国オリジナル劇場予告編(Movie Collectionムビコレ)

 

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