人生は、クリエイティブ・ディレクション:50代からの「おしゃれの学校」

誰も逃れられない〜『いだてん〜東京オリムピック噺』第35回 民族の祭典

大河ドラマ『いだてん』ブログをお送りしています。


1961年秋、五りんがハリマヤスポーツを訪れます。自作の落語『東京オリムピック噺』の取材のためです。五りんはそこで古い写真や四三がかつて履いた金栗足袋、ベルリンオリンピックで優勝した孫選手や銅メダルの南選手の足型を発見します。ベルリン・オリンピック、それは日本にとって悲願のマラソン初の金メダルを獲得した大会でした。そして、ヒトラー率いるナチスドイツの力を世界に見せつけた大会でもありました。1940年のオリンピックは日本に決まるものの、その圧倒的な力の前に、治五郎さんもまーちゃんも当惑します。そして、前畑秀子、リベンジの200メートル平泳ぎのレースは目前に。そのとき彼女は…。


<あらすじ>
1936年夏。ベルリンで4年後の次回大会の開催地を決めるIOC総会が始まり、嘉納治五郎(役所広司)は「日本で平和の祭典を!」と熱く訴える。その直後に開幕したベルリンオリンピックは政権を握るナチスが総力をあげて運営する大規模な大会となり、田畑政治(阿部サダヲ)を圧倒し当惑させる。マラソンでは金栗四三(中村勘九郎)と同じハリマヤ足袋を履くランナーが出場。水泳では前畑秀子(上白石萌歌)のレースが迫る。(NHK公式サイトより)

カメラマンには、自分が写った写真がない

アヴァンタイトルが長い(笑)。冒頭7分ありましたね。オープニングタイトルが出るまでに1本作品ができるくらい。7分間で1936年と1961年を往復しました。

ただし、場所はおなじ大塚の播磨屋。60年代には、ハリマヤスポーツと屋号が変わっています。

変わらないのは創業者の黒坂辛作がそこにいて金栗足袋をつくっていることです。辛作さんは1881年うまれなので、61年なら80才。奥さんのちょうさんに先立たれたことが、デスクの上の写真でわかります。四半世紀たっても、この人の変わらない“筋の通し方”こそ今回のテーマであり、オリンピックの原点、つまり「民族の祭典」のポジティブな面です。


その店に飾られている古い写真には、五りんの父と祖父が写っています。しかも、祖父は自分の結婚式の写真(仲人として四三とスヤも一緒に写っている)を持って写っています。でも、父や祖父の顔をよく知らない五りんにはそれがわかりません。

店の奥にいる辛作さんは、五りんの存在に気づいたようです。この回はなにかの伏線で、そのうち回収されるでしょう。
現時点ではっきりしているのは、五りんも顔を覚えている母が写っていなかったのは、写真を撮る側だったからです。


わたしは仕事で2500人以上に取材して、そのうち2000人くらいはカメラマンも兼任しました。撮影だけの仕事も請けているので、3000以上の現場を経験していると思います。なのに自分がその現場にいたことがわかる写真はほとんど持っていません。40年近くクリエイティブの現場にいますが、たった1枚だけ。

そこに写真があるということは、撮影した人も必ずいるということです(セルフタイマーという便利なものもありますけどね)。ときどき、写真がうまくなる方法について聞かれることがありますが、わたしはこんなふうに答えています。

「写真を見るとき、そこに写っている人だけではなく写した人のことも考えながら、見るようにしてみて」

色のない金メダリスト

『いだてん』というくらいなので、この物語のある種のゴールは、マラソンランナーが金メダルを獲得することです。ベルリンでは日本代表として出場した孫基禎選手が優勝。ある意味でクライマックスを迎えます。

これだけオールスターキャストの群像劇なのに、孫選手や銅メダルだった南選手は、役者があてられていません。ドキュメンタリーフィルムで紹介されるだけです。

『いだてん』は、記録映像に着色するなど、過去の映像の再現にこだわっていますが、孫選手や南選手の映像については徹底してモノクロ。唯一、足元の金栗足袋が映るときだけ、カラーになります。この理由が、辛作さんのセリフでわかります。辛作を演じた、三宅弘城さんのインタビューから引用します。

辛作さんにとっては、喜びもひとしおだったに違いありません。自分が作った足袋を履いた選手が金メダルを取ると言う、金栗さん以来の悲願がかなったわけですから。「日本人だろうが、朝鮮人だろうが、ドイツ人だろうが、アメリカ人だろうが、俺の作った足袋を履いて走った選手はちゃんと応援するし、勝ったらうれしい」というせりふに、その気持ちが表れています。僕も、今まで描かれてきたオリンピックの場面の中で、一番感動しました。
「今までにないぐらい、宮藤官九郎さんの心の熱い部分が出ている気がします」三宅弘城(黒坂辛作)【「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」インタビュー】(エンタメOVO:2019年9月15日)

このセリフ、「それじゃ駄目かね? 金栗さん?」と続き、四三が「播磨屋の金メダルたい!」と受けて、辛作さんの胴上げになります。

「民族の祭典」とは。

同胞の活躍を喜ばしく、誇らしく思う気持ちと自己のアイデンティティについて描いたのがロスオリンピックの一連の会。だとすれば、ベルリン大会で描こうとしているのは、国や民族を超越して、すべてのアスリートに対する賛辞だとわたしは思いました。

『いだてん』は、視点をまた一段階上げました。このままどこに向かうのでしょうか。



主人公より有名な脇役たち

主人公が無名といわれる『いだてん』ですが、主人公よりも間違いなく有名なのが前畑秀子でしょう。日本の女子選手として初めての金メダリスト。彼女を主人公にしたドラマやドキュメンタリーもあったし、これからもまた制作される可能性もあるでしょう。

でも、『いだてん』では有名人は脇役です。ヒーローやヒロインとして描かれず、緊張に押しつぶされそうになって電報を飲み込んだり、タイプの男子選手に胸をときめかせるふつうの女子として描かれます。



歴史って、大事件や大記録というより、日々のふつうの出来事の積み重ねのことかもしれません。
現代では蛇蝎のごとく嫌われるヒトラーも、合法的に選挙で選ばれたわけだし、ベルリンオリンピックの頃は、国民から圧倒的に支持されていたんですよね。

ラトゥール伯に「ヒトラーに感謝しなさい」と言われ、「アレがナニしてダンケシェン」と握手に差し出した右手がナチス式敬礼のように空中に残る…われらが主人公もそうやって戦争の大波に飲まれていきます。


第35回のサブタイトル/民族の祭典

『民族の祭典』は、ドラマでも紹介があったように、ドイツ人映画監督、レニ・リーフェンシュタールのオリンピック記録映画『オリンピア』の第一部のタイトルです。



第一部には陸上競技や開会式を収録、第二部『美の祭典』には水泳などそのほかの競技が収録されました。ドラマにもその映像が散りばめられていましたね。版権が切れてパブリックドメインになってるので、貼っちゃうわ(笑)。



わたしがレニについて知ったのは、18歳くらいの頃です。1977年に集英社の雑誌『MORE』が創刊。いまではふつうの女性ファッション誌ですが、創刊当時は「女性の自立」をコンセプトに掲げた、働く女性のメッセージリーダー的な知的な雑誌でした。

当時、よく行く書店に友人がアルバイトをしていました。「山田さんが好きそうな雑誌が創刊するねん。創刊プレゼントでバッグがおまけにつくから、うちで買って」と言われ、購入しました。
表紙はアンジー・ディッキンソン。当時のスーパーモデルです。創刊2号の表紙モデルはデヴィッド・ボウイ夫人でもあるイマン。

創刊当時のキャッチフレーズは“クオリティ・ライフ・マガジン ”。「キャリアウーマン」という言葉はこの雑誌が牽引していったと思います。女性が「性」に関することを口にするのはタブー視されてい頃に、エリカ・ジョングの『飛ぶのが怖い』を掲載。いま50代半ば以上の人なら「飛んでる女性」という流行語があったことを覚えていると思いますが、元ネタはこれです。これに触発されて、日本人の一般女性の声をまとめた大規模な性白書『モア・リポート』を発表。83年には書籍化されて大きな話題になり、その後も改定して版を重ねています。



『MORE』は創刊号でフランソワーズ・サガン、創刊2号でエリカ・ジョングのロング・インタビューを掲載。世界的に活躍する著名な女性たちのロングインタビューはこの雑誌の目玉で、わたしも毎号、熱心に読んでいました。この頃、読み応えのあるロングインタビューを掲載する雑誌というと『PLAYBOY日本版』か『MORE』でした。海外ミュージシャンなら『rocking’on』。

レニ・リーフェンシュタールの特集記事はそんな流れから掲載されたものでした。彼女はアフリカのヌバ族や水中写真などを発表していて、「美」というと日本的なものか西欧的なもののいずれかを中心に学んでいたわたしには、いずれにも属さない視点がとても新鮮でした。

本人もとても美しく、1970年代の後半にはすでに70代でしたが、創作意欲はまったく衰えておらず、「生涯現役」の人の生命力を感じました。「スキューバダイビングのライセンスを取ろうとしたら、すでに年齢オーバー。しかたなく10歳サバ読んで講習を受けて無事に取得した」逸話がいまも忘れられません。



当時、『ヌバ』がショックだっただけに、『オリンピア』を観たとき、じつはそれほど斬新さを感じなかったんです。スローモーションやアスリートの顔のアップの多用、逆光でボディのシルエットを浮かび上がらせる、マスゲーム的な構図…その頃、ふつうに観ていたスポーツ映像ってそんな感じで、しかもカラー。「市川崑の『東京オリンピック』のほうが新しくね?」なーんて思っちゃったんですよね。
その後、市川監督が『オリンピア』に影響を受けていたことを知り、不勉強が恥ずかしくなりました。そう、後年のスポーツ撮影の多くがこの作品に影響を受けまくってるんです!

で、第二部『美の祭典』も貼ってしまえ。
後半の高飛び込みのシーンの構図の美しさ。飛び込みといえばコレ!というヴィジュアルの典型をつくったのは、この作品といっていいでしょう。1930年代、撮影技術がまだ未熟な時代、ここまでつくり上げるために、試合後に再撮影したり、編集で逆回転をしたりと、ありとあらゆる工夫を重ねたようです。もちろんナチス・ドイツの潤沢な予算があってこそ可能になったわけですが。
そして「美をつくるためなら、なんでもする」態度は、「真のドキュメンタリーではない」と批判の対象にもなってしまいます。



戦後、彼女は自伝も書き、評伝も出て、たびたびドキュメンタリーが制作されています。代表作『オリンピア』や『意志の勝利』は、ナチスのプロパガンダ映画として、戦後は徹底的に糾弾されました。ドイツ国内ではいまでも観ることができません。

レニは自著やインタビューでは、自分は政治には無関心であり、美を追求しただけだと主張しつづけました。結果的にナチスに協力したことについても謝罪していません。戦後の裁判では党員ではなかったことが認められ、無罪になったにもかかわらず、ナチス協力者という烙印は、生涯彼女を苦しめました。
                                                                                                                                                          

一体どう考えたらいいのです?どこに私の罪が?『意志の勝利』を作ったのが残念です。あの時代に生きた事も。残念です。でもどうにもならない。決して反ユダヤ的だったことはないし、だから入党もしなかった。言って下さい、どこに私の罪が?私は原爆も落とさず、誰をも排斥しなかったーレニ・リーフェンシュタール(映画『レニ』より)

映像作家としてのレニの力量を疑う余地はありません。イタリアの映画監督、ヴィットリオ・デ・シーカ、詩人のジャン・コクトーなど多くのアーティストがレニに賛辞を送っています。ローリング・ストーンズのミック・ジャガーは『意志の勝利』を何度も見返してパフォーマンスの参考にしているし、夫人だったビアンカと一緒にレニに撮影を依頼しています。

とはいえ、作家として作品を世に問う以上、対象となることに無知で無関心であっていいのでしょうか。
下の動画『ゲッベルスと私』は、レニも深く関わりのあったナチスの宣伝相ゲッべルスの秘書だった女性のドキュメンタリーです。この作品における彼女の発言(下の予告編  〜)にご注目ください。

体制から逃れることなんて絶対にできないーブルンヒルデ・ポムゼル(映画『ゲッべルスと私』より)


長くなりましたが、何が言いたいかというと、わたしもクリエイターの端くれとして、もし、おなじような立場になったとき、どう振る舞うか考えると恐ろしくてたまらない、これはなにも昔の話じゃなく、クリエイターにとって永遠の命題だよという話でした。


最後に、ブルンヒルデさんは103才、レニ・リーフェンシュタールは101才まで生きました。レニは亡くなる1年前に長年助手を務めていた40才年下の男性と結婚。自身の長寿についてこう言っています。


世間の悪意が私をこんなに長生きさせたんだわーレニ・リーフェンシュタール(映画『レニ』より)



さて、次回のタイトルは『最後の晩餐』。そうか、あの人との別れが近いのか…
ネタが尽きない『いだてん』、次回もたのしみです!


■関連サイト:レニ・リーフェンシュタール公式サイト(英・独)
レニ・リーフェンシュタール 〜ナチスの光と影〜(阿部十三/花の絵:2011年4月27日)
レニ・リーフェンシュタール「美」だけを見ていたナルシシスト【オリンピック レガシー 人物編】(大野益弘/笹川スポーツ財団)
レニ・リーフェンシュタールと「ファシズムの美学」 井口祐介(筑波ドイツ文学界発行)
70年代の女性誌はフェミニズムが一大ブームだった(『森瑤子の帽子』島﨑今日子/幻冬社plus)
ナチス宣伝相の秘書が残した最後の証言「私に罪はない」の怖さ(石戸諭/HUFFPOST 2018年6月16日)

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